週休たくさんで主にスペインサッカーを分析
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前回、得意な技がアイディアを規定し、選手の行動を支配することを見た。

このことは、スラローム系の技術を覚えることの危険性を示している。
特に、子供にとって危険である。

この点を理解するためには、スラロームが正対よりも低い技術であることを認識する必要がある。



この点については、「スラロームの導入」からご覧いただきたい。

スラローム系の技術として、下のようなものがある。












クライフターンである。
これは、現在、基本技術としてごく小さい年代の選手に教える。
技を覚えた子供はそれを使いたがる。
ミニゲームで使い、それで成功すれば試合でも使う。
例えば、下のプレーを成功させる。



左足でのクロスフェイクから切り返し、シュートを決める。
これが実現すれば、皆が誉める。
特に保護者が誉める。
あの子はあんなに小さいのに、もうあんな技を使える、素晴らしい。
誉められた子供は、ますますその技術に磨きをかける。
そして、また試合で使いたがる。

使いたがるがゆえに、わざと相手に体の横を向けてプレーするようになる。
例えば、下の状況を迎える。



クライフターンを使いたがるがゆえに、下のように動く。



今度もまた成功すれば、皆が誉める。
やっぱりあの子は大したものだ、素晴らしい技術だ。
誉められた子供は、これがよいプレーだと思う。
思うがゆえに繰り返し、習慣化する。

こうなった時点で、この選手の未来は、半分終わっている。

これが習慣化するということは、相手に横を向けることが癖になるということである。



これが基本姿勢になる。
この選手が、さらに技を覚えようとする時、基本姿勢から使うことのできるものを覚える可能性が高い。
つまり、相手に体の横を向けながら使うことのできる、スラローム系の技を次々と習得することになる。

その結果、彼の技術分布は以下のようになる。



基本姿勢がスラロームに適しているため、それに関する技を多く覚える。
正対に関する技術は、身につけたとしても少数であり、また低いレベルのものである可能性が高い。

この状態でプレーすれば、当然、スラロームを多く行う選手になる。



つまり、下手なプレーをつなぐようになる。
これは、以前に見たように、身につけた技術が思考、アイディアを規定するからである。

スラロームを行う限り、相手のレベルが上がれば上がるほど苦しくなる。
これも以前に見た通りである。

持っている技が通用しなくなった選手は、さらに技を工夫する。



工夫したところで、基本のアイディアがスラロームである以上、そこから抜け出すことは容易ではない。
工夫すればするほどスラローム系の技術が増え、それによりスラローム癖をますます強め泥沼にはまっていく。

もはや、技術的進歩というもはない。

そして、中途半端な実績でサッカー人生を終わる。

「子供の頃はあんなに上手だったのに」
「上手いけどなぜか試合では今ひとつだった」
「国内では上手いのにトップリーグでは通用しなかった」

その時に残るのは、こういった評価である。

こうなる理由は、最初にクライフターンを覚え、嘘の成功体験を重ねてしまうからである。

子供の頃は、スラロームでも上手くいく。
なぜなら、その年代では選手のレベルの差が極めて激しいからである。
ちょっと技術的才能のある子供なら、簡単に守備者の逆を取ることができる。

それが積み重なって、スラローム癖ができあがる。

その後、選抜を経て周囲のレベルが上がるとそれでは通用しなくなる。
結果的に、上で見た悪循環にはまり込む。

元をただせば、最初に正対を意識せず、クライフターンを覚えたことが間違いだったことになる。

以前、子供がクライフターンを覚えるとサッカーが下手になる可能性が高い、と述べた理由はこれによる。

ただし、これはクライフターンがサッカーに必要ない技術であるということではない。
正対という芯を入れずに、クライフターンのようなスラローム系の技を覚えることは極めて危険であるという意味であり、特に子供に対して毒性が高いということである。

そもそも、クライフ自体が正対を強く意識した選手である。
クライフにとって、スラロームのクライフターンはいわば余技であり、彼の本当の上手さは正対からのプレーにある。
余技を真似し、その本質を理解しないのでは、まさに本末転倒である。

才能のある子供であれば、技の種類を増やすことはそれほど難しいことではない。

しかし、正対という本質、正対という技術全体を貫く原理に気づくことは非常に難しい。

そして、原理こそが最も重要なのである。

これを忘れては、今回の例のように、自ら下手になる選手を作ることになる。

逆に言えば、正対という原理を常に意識することにより、その罠から逃れることができる。

正対ミニマムを作り上げる意義はここにある。

それさえあれば、正対を恐れる必要はなくなり、原理から離れることもなくなる。

これが最も大切なことである。

正対という原理を忘れては、トレーニング理論そのものも珍妙なものができあがる。

例えば、選手の技術を上げる一つの理論として、トリック主義と呼べるものが存在する。

まず、様々なトリックを選手になるべく数多く教え込む。
教え込むことで、技術的な「引き出し」を多く持たせる。
実際の試合でどの技術を選択するかは、試行錯誤による選手個々の判断を尊重する。

このような方法論である。

しかし、これは正対という芯を入れなければまったく意味のないトレーニングになる。

次にこれを見る



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