週休たくさんで主にスペインサッカーを分析
クロアチアは前半、ロングボールを多用していた。
クロアチアが、前半に長いフィードで狙った場所は次のようであった。 上が日本のゴールである。 左右の守備の裏を狙うボールが多い。 この意図は、主に二つある。 一つは、ハイプレスをかわすことである。 日本は、高い位置でのプレスが強い。 これをまともにくらうとスペインでも沈没する。 プレスがかかる前に長いボールを蹴れば、被害は避けられる。 もう一つは、カンターを避けるためである。 ハイプレスをかけないとき、日本は引いて守る。 そこからのカウンターは速い。 ロングボールを出して、その結果を見て押し上げればカウンターをくらう可能性は低い。 クロアチアがこのような戦術を選んだのは、日本が守備を攻撃としているチームだからである。 ハイプレスもカウンターもまず守備があり、そこから鋭い攻撃がある。 このため、日本の攻撃を抑えるには望む守備をさせなければよい。 それがロングボールを多用した理由である。 その中で、日本が先制しクロアチアが追いつく。 後半になって、日本が戦術を変更する。 後方からのロングフィードをより多く行うようになった。 この大きな理由は、クロアチアのハイプレスを避けるためである。 日本が、後方から丁寧につなぐとクロアチアはプレスをかけてくる。 これに比べて、クロアチアはプレスが来る前にロングボールを出す。 そうなると、日本が一方的にハイプレスをくらう形になり不利である。 このため、ある程度ロングボールを混ぜざるをえない。 しかし、日本の前線はサイズに乏しく、これを受けるのに向いていない。 そのため、74分に酒井が右に入る。 これは、酒井が落としてそれを拾うためである。 ヘディングに強い選手を入れて競らせ、そのセカンドボールをつなぐ。 しかし、この戦術を用いると落とした後での競り合いが多くなる。 直接競るよりはましとはいえ、やはり前線のサイズがない日本には不利である。 このような展開になると、競り合いに強いフォワードが欲しくなる。 例えば大迫である。 この展開には抜群に向く選手である。 「なんで大迫がいないんだ!彼なら打開できるのに!!選手選考がおかしい!!!」 と思うのは、おそらく贅沢である。 今回の日本は、ドイツとスペインに勝てるようにつくられている。 自陣ゴール近くからつなぐ相手に、ハイプレスを極限まで高める。 そして、高い位置で奪って一気に攻める。 これを実現するために選手に必要なのは、プレスへの理解力、規律、モービリティ、持久力である。 このため、テクニック、サイズといった要素は後回しになる。 大迫をいれるとプレスに穴が開きやすくなる、といった判断がなされた場合、どうしても選ばれにくくなる。 ロングボールのオプションとして大迫を控えに置けばいい、というのは確かにある。 しかし、彼を控えにおけるのか、という問題がある。 加えて、前線に怪我人がでてもプレスを継続するためには、控えにも同様の選手を置きたい。 それを考えると大迫の枠を確保しにくい、という事情もある。 プラスとマイナスを考えたとき、プレスを優先して大迫を外し、ロングボールの一つのオプションとして酒井を置いて対応する、という結論になったのだろう。 取るものがあれば、捨てるものもある。 その結果として、今回の日本は、強いチームに強く、弱いチームに弱い。 ハイプレスを避けてロングボールを多用する、というのは弱いチームに多い戦術である。 例えば、コスタリカは後方で無理につながず長く蹴る。 そうなると、日本は一番のストロングポイントを使えないため、手を焼く。 手を焼くどころか、負ける。 これに対して、スペインは日本がプレスを得意としているのを承知で堂々とつないでくる。 その結果、日本が勝つ。 その勝ちは偶然ではなく、十分に用意された勝ちである。 最後の相手となったクロアチアは、決して弱いチームではない。 弱くないチームが、いわば謙虚なプランを用意し、日本のよさを消すことに重点を置いていた。 その結果、戦術面では常にアドバンテージを持って戦っていた。 一方の日本は、良さを消されて苦労した。 戦術的には劣勢だったが、先制点は日本だったし、120分戦って引き分けだった。 コスタリカに負け、クロアチアに引き分け、ドイツに勝ち、スペインに勝ち。 不思議な結果であり解釈に苦労するが、チーム設計から見れば、ある程度納得できるのではないだろうか。
日本がスペインに勝って、決勝トーナメントに進出した。
大変めでたいことであり、大いに祝福されるべきできごとである。 しかし、一方で忘れてはいけないこともある。 つい先日まで、「吉田麻也のクリアミスミス」「吉田麻也のパスミス」と呼ばれ、大きな話題になっていたプレーである。 はたしてあれは吉田の責任なのであろうか。 プレーは次のようだった。 このあと失点し、コスタリカに敗れる。 上の流れを見ると、確かにパスがズレてつながっていない。 その意味において、これはパスミスである。 次に、同じ場面を、下の二人の選手について、その動きの差に注目して見ていただきたい。 二人とも、ボールを追うために左に動いている。 その動きの起点となる、右足の着地に注目する。 赤いユニフォームの選手の着地は、次のタイミングである。 青いユニフォームの選手の着地は、次のタイミングである。 明らかに日本の選手の方が動き出しが遅い。 動画のフレーム数でいうと、15フレームだけ遅い。 1秒で大体60フレームなので、4分の1秒ほど遅い 結果として次のようになる。 ぎりぎりでボールに触れている。 遅い動き出しでもボールに触れられるならば、きちんと動き出していれば簡単にこのボールを処理で来たはずである。 このプレーについて、「こんな厳しいゾーンで難しいパスをつなぐべきだはない」としてパスを出した責めることはできる。 しかし、それには意味がない。 まず、今のサッカーはリスクを犯してでもつなぐことが主流であり、日本代表もそれを目指している。 そうである以上、受ける側がパスに対して準備をしておく必要がある。 また、「引き分けで十分なグループ状況なんだから、安全を優先クリアすべきだ、パスを選択すべきではない」という批判も成り立つ。 確かに、チームの指示で選択が変わる場面ではある。 無理に勝ちにいかず、引き分けを目指すなら、このパスは絶対に出してはいけない。 しかし、それでも準備動作を怠る理由にはならない。 その理由は、上で見た赤い攻撃側の選手の動作にある。 この選手は、一度左足に体重をのせた後、それを抜き、両足をそろえて少し浮いた状態になる。 それにより、パスに対して素早く反応することができる。 この状況では、ディフェンスはクリアするかもしれないし、パスをするかもしれない。 不確定な状況では、どの方向にも素早く動けるように、下のように浮いて準備する必要がある。 別角度からみると次のようである。 これがサッカーの基本である。 それに対して、青い選手は完全に片足に体重をのせている。 これが、動き出しが遅れる原因であり、まったく基本に忠実ではない。 パスに反応が遅れたのは、それが原因である。 また、パスではなく、大きなクリアが行われるとしても、準備動作は必ず行わなければならない。 それは、常に、クリアミス、キックミスの可能性があるからである。 コスタリカの選手は、パス、クリア、キックミス、そのどれが起きてもすぐに対応できる。 それに対して、日本の選手は絶対に動き出しが遅れる。 かりに、キックミスが起きて、この二人の間にボールがこぼれたとき、青い選手は絶対に競り負ける。 これは、ディフェンスラインの前でプレーする場合、特に致命的な欠陥となる。 よって、この状況では、攻撃側、守備側、ともに赤い選手のようにプレーすることが必要であり、それがサッカーに絶対不可欠な基本である。 13番の選手は、その絶対に欠かしてはならない基本を守っていない。 よって、このプレーから失点したことは、完全にその選手の責任である。 このプレーは、「吉田のパスミス」と語られるべきではない。 「受け手の準備動作の不足」もしくは「13番の一歩目ミス」として語られる必要がある。 こう書くと、「おまえは吉田をかばいたいのか」「おまえは13番が下手だといいたいのか」という話になる。 しかし、そうではない。 この場面で一番重要なのは、「サッカーにとって一歩目は致命的に大事である」という事実である。 これは、非常によく言われることだが、必ずしも守られてはいない。 例えば、以前に「サッカー選手と準備動作」というテーマでマルセロの動きについて見た。 そこで見たように、マルセロはまったく準備動作の重要性を理解していないため、一歩目が必ず遅れる選手だった。 ブラジル代表選手でも、準備動作ができない選手がいる。 トッププロでもそうのような状態である。 この試合でも、それは見られる。 当たり前であるが、日本代表は国の打表になるほどの選手の集合である。 しかし、動き出しが遅れる選手がそこかしこに見られる。 丸投げになって申し訳ないが、ぜひその点に注目して試合を見返していただきたい。 上の場面だけでなく、様々な場面で選手の動き出しが遅れる姿が見られるはずである。 さらに言えば、コスタリカの選手でも準備動作が足りない選手は多い。 「サッカーにとって一歩目は致命的に大事である」というのは、言葉では理解されている。 しかし、代表レベルでさえ、それがピッチ上で正確に行われてはいない。 ここでの考えとしては、これをきっかけに、日本が世界一動き出しを大切にする国、世界一一歩目を大切にする国になればよいと思う。 コスタリカ戦では、絶対に欠かしてはいけない基本を欠かしたために予選リーグ敗退の危機を招いた。 スペイン戦で勝ってこの危機は回避された。 そのことにより、このミスは、とてもよいミスになった。 もし敗退していたら、このミスはとてもつらいミスになっていたが、そうではなくなった。 このプレーは、最初の一歩を切れる切れないで歴史が変わることを示している。 きちんと準備動作を行い、きちんと一歩目を出せば歴史を変えることができる、それをこのプレーは示している。 例えば、今回のプレーでであれば、もっと余裕をもってボールに追いつくことができる。 余裕を追いつくことができれば、クリアすることは簡単にできる。 よって、ギリギリのプレーになって失点することもなく、それで試合に負けることもない。 むしろ勝つことだってできる。 ボールに触れた時の状況は次のようだった。 もし余裕をもって触れたら、上に大きなスペースがある。 これを利用すれば、次のようにパスをつなげる。 そこに後ろからフォローが入る。 これはものすごいチャンスになる、という夢が持てる。 一歩目をきちんと切れば、それだけで夢が持てる。 切らなければ試合に負ける。 一歩目の大切さをこれほど明確に示す例もめずらしい。 よって、このミスはとてもよいミスであり、後世に語りつぐ意味がある。 そうであるがゆえに、これを「吉田のパスミス」として語りつぐのは本当にもったいない。 それよりも、「一歩目のミス、準備動作のミス」として語りつぐ方がずっと意義が大きい。 きっと、このプレーは、ワールドカップが来るたびにテレビでもネットでも話題になるだろう。 その時、「あそこは一歩目が大事なんだ」とみんなが思い出せば、動き出しの重要性は未来永劫伝わっていく。 それが、少年少女にきちんと伝われば、その国のサッカーは確実に強くなる。 一歩目の重要さは、子供達には非常に伝わりにくい。 だからこそ、このプレーには価値があり、「二度目のドーハの悲劇」ではなく、「ドーハの一歩目」として語られる方がよい。 そして、日本が世界一一歩目を大切にする国になればよい。 例えば、コーチが複数いるチームなら、一人を「一歩目コーチ」にしてもよい。 これは、準備動作と一歩目だけに注目して指導するコーチで、動画などを分析し、遅れている場面を抜きだし、選手たちに指導する。 これを3年も続ければ、癖として定着し、選手は無意識に正しい準備動作をするようになるだろう。 これは、選手にとってとても重要なことで、この動作を身につけていないと自分自身に負ける。 正しい準備動作をする自分に、正しい準備をしない自分は絶対に勝つことができない。 たかだか一歩目にそこまでの労力をかけられないのが現状ではあるが、コスタリカ戦の負けを見れば、一歩目には歴史を変えるだけの力があることがわかる。 この認識は、日本サッカーの財産になる。 そう思うのですが、いかがでしょうか。 (終わり) 参考:味方のパスに対する準備動作
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「困った」
「困ったな」 「コロナとやらの影響でグランドがどこもあいてない」 「サッカーできる場所がない」 「おまけにプロリーグもない」 「まさか分析する試合がなくなる日が来ようとは」 「びっくりやな」 「そういえば最近、気になることがあるんやけどな」 「なんや」 「広くもない公園で子供が30人ぐらい、ボールを投げながらぎゃあぎゃあぴーぴーわめきつつ遊んでおってだな」 「あー」 「すごく危ないなと思ってだな」 「いろんなところが遊戯禁止になるから、まだあいてる場所に子供が流れ込んですし詰めになるんやな」 「あれだけ密集すると野外といえ危ない」 「おまけにボールの周辺で団子になって叫んでいるわけだから、感染リスクがものすごく高い」 「野外だから密集していいわけでなく、大声で叫んでいいわけでもない」 「スペインなんか大集団のデモでコロナが広がったところがあるからな」 「3月8日の大規模デモか」 「新聞で見たけど、一番高い場所で1平方メートルあたり3人がぎゅうぎゅうになっていたらしい」 「スペインの新聞ってデモの人口密度好きやんな」 「その10日後くらいから一気に死者数が増えたから、きっと関係はあるんだろうと思っている」 「あれだけ感染爆発を起こすともうリンクの追跡なんか不可能やから、真相は藪の中やけどな」 「それはともかく、外であれ、密集して叫んでいいことにはならない」 「リスクを考えると当然やな」 「そこでサッカーの出番やな」 「なんの話や」 「いや、ボールを手で投げる競技をやるとするやろ」 「はあ」 「そうすると、ボールが人の手から人の手にわたる」 「そうやな」 「そうすると、ボールがウイルスを媒介してしまう」 「ボールがハマダラカか」 「ドッジボールとかハンドボールとかバスケとか野球とか、その意味で危ない」 「野球もか」 「ピッチャー、キャッチャーの間で長いことボールを交換するし、アウトを取るためには誰かの手から誰かの手にボールを渡さないといけないからやっぱり危ない気がする」 「そうなんかね」 「そこでサッカーの出番や」 「キーパーもおるし、ヘディングもだいぶ危ないで」 「だから、キーパーなし、ヘディングなしで純粋に足だけでやる」 「それはサッカーというのか」 「足こそサッカーだろ」 「いや、ヘディング最高だろ」 「変態か」 「長いクロスが飛んできて、それを頭でつかまえてドカーンとゴールに叩きつける、あの時に体に走る快感は足より上やで」 「効き足が頭のセリフやな」 「あの気持ちよさがわからんとはなげかわしい」 「そんでこんなものを考えてみた」 「なんじゃこりゃ」 「題して社会的距離構造」 「意味がわからん」 「このように選手を配置する」 「でも、通路の間って1.5mしかないんやろ」 「そうやな」 「2mはとらなあかんのちゃうか」 「いや、選手は動くわけで、1.5mの最短距離に近づくのはあるとしても短時間しかない、野外なら十分ちゃうか」 「そうかね」 「平均でいえば3.5m程度あくわけやしな」 「そんでなにすんねん」 「あとは足だけ使ってご自由にでいいと思うねんけど」 「適当やな」 「とにかく、選手は自分の枠から出ない、そうすれば社会的距離は保たれるから、あとは好きにできる」 「投げっぱなし感がすごいな」 「例えばこう」 「ルールがわからん」 「相手のコートにゴロでボールを蹴り、相手が止められずに外に出たら1点」 「それをやるにはコートが狭くないか」 「いや、想定としては小学校低学年だからたぶんこんなもん」 「大人がやるわけ違うんか」 「話の最初を思い出すよし」 「公園で群れている子供をどうにかしようという話か」 「まさに」 「でも、これ、コートの端をせこくかすめるように蹴ればゲームにならんの違うか」 「それも技術だとおもうけど、例えばマーカーをおいてこんな感じにすればよろし」 「ふむ」 「アレンジは自由自在で、ダブルスも楽しめる」 「サッカーテニスもできそうやな」 「多分めっちゃ楽しいで」 「普通のやつが区切られただけやろ」 「そうとも言う」 「でも、これやったら高学年でも楽しめそうではあるな」 「ワンバンOKからノーバンオンリーまで、技術レベルに合わせて楽しめる」 「でも、こんなん公園ででけへんやろ」 「だから、小学校のグランドでやる」 「緊急事態宣言で閉まってる」 「だからあけてもらう」 「無理やろ」 「いや、管理できない状態で子供を遊ばすと必ず団子になるから、安全を管理できる状態で遊ばせないと絶対だめ」 「そもそも家から出るないう話やしな」 「それは無理」 「無理といわれても困る」 「子供は動きたがるもんやからそれは無理」 「それはそうやけども」 「外で遊べない、家で暴れる、お母さん怒る、やっぱり動きたいので暴れる、お母さん怒鳴る、家の雰囲気悪くなる、でも子供やっぱり暴れる、お母さんついつい手をあげる、両方心傷つく」 「なんの呪文や」 「お母さんも子供気持ちがわかるから根負けして外に連れ出す、そこに同じような人が3組4組とあらわれて一緒になって遊びだす」 「さっきから妄想が暴走やな」 「そうすると、そこがクラスターになって複数の家族で感染が起こるのでこれは駄目」 「まあそのシナリオが駄目なのは確かやな」 「だから学校でやる方がいい」 「先生が大変やろ」 「いや、要所要所に先生を置けば複数を一度に管理できるのでそんなに大変ではないはず」 「先生の人数が足らんやろ」 「それは、1限目は1年生、2限目は2年生、、、6限目は6年生、とかやっていけば大丈夫ちゃうか」 「登下校が危ないやろ」 「そこは、低学年は親に同伴してもらって、一組づつばらばらにやってもらえば」 「親が大変やん」 「自分が見ながら外で遊ばせるよりは大変じゃないのではないかと」 「それはそうかもしれんが、なにしろ現場をしらん我々ではどこまで行っても妄想の域をでないのではないかね」 「そうなんやな」 「そこは素直なのか」 「でも、このウイルスって半年は確実でまずまず一年以上かかるから、子供が安全に遊べるガイドライン作りは一番大切やで」 「一番なんか」 「あたりまえやろ」 「断言されてもだな」 「子供が一番閉じ込められないもので、それを無理に閉じ込めようとすると大人の心も擦り切れていって、ウイルスをしのいだとしても、いろいろなものが壊れてしまう」 「でもなあ」 「だから、社会的処方箋が必ず必要になるねん」 「なんだそれは」 「このウイルスって、社会を殺すか人を殺すか、どっちかえらべ言うてんねんな」 「いきなり物騒やな」 「人の命をまもってロックダウンとかするとこうなるねん」 画像元:el Pais 「社会がなんにも息してへんやろ」 「まあ、土曜のマドリーの公園がこうだとそう言えるかもしれん」 「でも、うっかり社会を動かすとたくさんの人が死ぬ」 「短期間で数万の人がなくなる」 「だから、人を生かそうとすると社会が死ぬし、社会を生かそうとすると人が死ぬ」 「難儀やな」 「だから社会的処方箋が必要なんや」 「それはいったいなんなのかと」 「ここまでやっても人は死なないですよという処方箋で、この場合だと、ここまで子供を遊ばせても人は死にませんよ、という処方箋やな」 「そんなことか」 「それを考えている人はたくさんいると思うんやけど、子供が遊べる処方箋を最優先でつくれないもんかと思うんやけどな」 「経済やらなんやらいろいろあるしな」 「でもな、子供処方箋があれば人の流れを意図的に操作することすらできるねんで」 「なんかいきなり悪の組織っぽいな」 「例えば、しばらくすると怖い怖いゴールデンウィークが来るやろ」 「来る」 「帰省するーとかいって都会から田舎に人が動けば大量感染、大量死亡が目に見えてるやろ」 「まあ、帰省先にはお年寄りがまっているのが一般的やからな」 「それは、絶対に止めないといけない」 「そのための全国緊急事態宣言なんやろ」 「強制力のない宣言で止められると思うのか」 「そこは人のグッドウィルというものに期待してだな」 「そんな時に、子供が遊べる処方箋があれば、罰則とかなくても止められるねん」 「無理やろ」 「いや、例えば今、子供は遊び足りなくてイライラしてるわけやろ」 「そうやな」 「そこで、4月23日から、週6日で小学校のグランドで遊べますよーってやるねん」 「やるとどうなる」 「子供は当然、友達と遊びたいから学校に行きたがる」 「そりゃそうやろな」 「そうなれば親が帰省しようと言っても絶対に嫌がる」 「話が見えてきたで」 「これを5月6日まで続ければ、都会から田舎への伝播をもののみごとに防ぐことができる」 「風が吹けば、みたいになっとるな」 「そもそも民衆にエンターテインメントを提供するのは為政者の義務なんだから、子供に遊びを提供するくらいは早期にやってほしい」 「ローマ人か」 「そんなことをここ一週間ほど考えてたわけやどな」 「暇やな」 「そうでもないで」 「ほんまか」 「まあ、サッカーないしな」 「確かに」 「まあ、ないもんはないんやし、しゃあないな」 「イメトレに明け暮れるしかない」 「ポジティブに行くしかないかね」 「それはあかんな」 「あかんのか」 「この前、”コロナでも一家全員ポジティブです!!!”って文章を見て心臓が止まりそうになったんや」 「なんでや」 「最初目に飛び込んできたのが、コロナ、一家全員、ポジティブって単語やったから一家全員コロナに感染したと思ってびっくりしたんやけどな」 「それは、ひらがなを読み飛ばすお前の癖がわるい」 「だから、コロナ関連でポジティブって表現は避けたほうがいいと思うねんけどな」 「外国人に対してはそうかもわからんな」 「まあ」 「そんなこんなを話しつつ」 「はやく子供が遊べる処方箋ができることを祈りつつ」 「またいつの日か」 「ごきげんよう」 しつこさは宝? (2004.10.27) 今日はサッカーが上手くなるために必要な性格などを考えてようかと。 まず、サッカー選手というものは、同じ行動を繰り返すしつこさを持ち合わせなければならない、と考えられる。 例えば、得点につながるはずのスルーパスを試み、相手にカットされてカウンターから一点を失ったとする。 ここで、「ああ、俺のパスミスのせいで、、、」と考え、次から一瞬パスをためらうようになっては、いつまでたっても技術の向上は望めない。 たとえその失点で敗れたとしても、「いや、狙いは良かった狙いは、次はキッチリ通そう。」と思うか、「ちっ、なにやってんだよ、おめーらがちゃんと守らねぇからまけっちまったじゃねぇか」と思って同じ行動を取り続ければパス能力を改善していくことができる。 よってサッカー技術上達のためには同じ行動を繰り返すしつこさ、めげない精神が大切になる。 そしてこのような性格は、以下のような場面によくあらわれる。 例えばフリーキックに対して壁をつくる時。 当然、審判が後ろを向いた瞬間、足を細かく動かし、すりすりとボールに近寄っていくのだが、時としてそれがばれてしまうことがある。その時はまた後ろに下げられてしまうのだが、次に審判が目を離した隙にもう一度こそこそと前に出る。 例えばイエローカードをもらった後。 「一枚イエローを出した五秒後にもう一枚出して退場させはしないだろう」と考え、もう一度激しいファールで相手を削る。 例えば互いにユニフォームを引っ張り合いケンカになった後。 引っ張った引っ張ってないで殴り合い寸前の揉め事が起こった直後のコーナーキックで、同じ相手のユニフォームを掴む。そして敵がきれて肘撃ちでもしようものなら、大げさに倒れこみレッドカードを誘い込む。 要するに、人が「して欲しくない」と思う行動をやり続けるめげない心、という形であらわれる。 その昔、とにかくスローインが下手で、いつもファールスローを取られるパブロという子どもが居た。 11歳だったのだが、そのレベルの試合では、あまりにもファールスローが多いと審判は正しいやり方を教え、やり直しをさせてくれることがある。 ある日、いつものようにスローインを失敗し、パブロは周囲からもの凄い罵声を浴びた。審判がやり直しを命じたのだが、彼は再び同じ方法でスローインを行い、今度は笛がならなかった。 そして、その時、「なんだよ、前と同じなのに今度は吹かねぇのかよ」と呟いた。 そんな彼は、群を抜いてドリブルが上手かった。 たった一人の例ではなんの証明にもならんのですが、上のような現象はサッカー界でよくある風景ではなかろうかと。 一般常識からすると、はっきり言って嫌な奴でしかないが、そういった、はぐれた子ほどサッカーが上手かったりもする。 上のパブロの場合は、本人は前と全く同じようにスローしたつもりでも、やっぱり審判の言葉が気になったのか、ボールをいつもよりほんのちょっと後ろに引いていた。 そのお陰で審判が見逃してくれただけだとは思うのだが、それにも気付かず、取り敢えず我が道を行くその姿はやはりサッカー向きかと。 ここで、我が身をひるがえってみるに、昔から同じことを繰り返されるのが大っ嫌いだった。 例えば、ある曲の歌詞について、「この”アセレヘ”ってどない意味なん?」と聞かれ、「知らん」と答えた10分後に、「アセレヘってどういう意味なんやろ?」と再び聞かれ、またもや「だから知らんって」と答え、さらに20分後に同じ質問を繰り返されると、真剣に頭に来て、「だからさっきから知らん言うとんじゃボケッ!」と本気で怒鳴っていたものである。 しかしながら、上の話を思い合わせ、「人が同じことを聞かれ、イライラした態度を見せているにも関わらず、何度もそれを繰り返す。ということは、相手が何かを嫌がるかどうかよりも、自分の聞きたいことの方が大切なのに違いない。つまり、こいつは、サッカーをやらせたら案外上手くなるかもしれない。」 と、風が吹けば桶屋が儲かる式に考えるようになってからは、それほどイライラしなくなった。 もし、周囲でそんな子供を見かけたら、サッカーを勧めてあげて下さい。 存外、日本を救うことになるかもしれません。 |
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